馬引きからオート三輪、そしてトラックへ。
はじまりは旅館の御用聞きだった
今成運送は、祖父である今成政司の馬引きからはじまりました。いわゆる御用聞きですが、伊香保の旅館からお金をお預かりして、渋川で品物を購入してお届けしていたのです。伊香保には銀行がなく、通帳をお預かりして、銀行でお金を下ろして買い出しをするようになったといいますから、要するに信用商売ですね。それが大正末期のことで、「個人で馬一匹」が今成運送のはじまりだったのです。
昭和の初期、まだ牛が鋤を引いて畑を耕していたような時代ですから、牛を売ってトラックを買うといったこともたくさんあったようです。祖父が馬や牛を売ってトラックを買ったのは昭和6年のことで、フォードかクライスラーだか、中古の輸入トラックだったそうです。「個人で馬一匹」から「個人でトラック一台」になったわけですね。その後、戦時統合で軍のためにトラックを供出し、事業を再開したのは昭和24年のことで、28年に新免業者となり、正式に今成運送を設立したのです。
ひと月に35回も軽石を運んだ高度成長期
昭和20年代には薪炭、30年代は野菜や魚をメインに渋川や前橋のマーケットを往復し、高度成長期に入ると、護岸工事用の大きな石を羽田空港や千葉の海岸に運搬したこともあったといいます。二代目を継いだ父・久男に聞いた話では、府中の東京競馬場の排水を良くするために、ひと月に35回も渋川から府中までドラックで軽石を運んだこともあったそうです。
1日に2往復というと、朝一番で府中に行って軽石を降ろし帰ってきて、もう一度軽石を積み、再び府中に行って、夕方に降ろして、とかですよね。軽石を積むときはブルドーザーでザーッとやりますが、ダンプじゃありませんから、降ろすときはスコップによる手仕事でしょう。高速もないし、舗装もされていない時代ですから、片道4時間以上はかかったのではないでしょうか。このあたりのじい様たちが「久男さんは仕事が強かった」といいますが、いまから考えると大変な労力だったろうと思いますね。
母方の祖父の探究心が築いた日清食品との絆
うどん屋を営んでいた母方の祖父は、お湯で戻して食べる味付きラーメンの研究をしていたそうです。資本力の問題などもあって安藤百福さんが祖父の技術を買ってくれて、それがチキンラーメンの開発につながったようです。そんなご縁で、母方の実家ではいまでも日清食品さんの協力工場としてチキンラーメンを製造しています。
わたしは昭和33年8月20日の生まれですが、奇しくも、チキンラーメンが誕生したのはそれから5日後なので、日清食品さんとは特別な因縁を感じています。お付き合いはかれこれ60年近く、小麦粉などの原材料を工場に届けたり、流通を一貫して請け負っています。また、サントリーさんの榛名工場ではお茶とコーヒーをつくっていますが、こちらも長く配送のお手伝いをさせていただいています。
物流は動脈。止まったら北関東の900万人が困窮する
ロジスティックという言葉を耳にするようになったのはここ20年くらいのことですが、昔流にいえばメーカーさんの後方支援ということで、わたしにしてみれば、もう半世紀も前からやってきていることなのですね。マーケットとしてはやはり東京や大阪のボリュームが大きいわけですが、たとえば日清食品さんの北関東の配送エリアもかなり大きくて、群馬、長野、新潟、栃木、埼玉北部の総人口は900万人くらいになります。物流というのは人間の身体でいえば動脈です。動かなくなれば、1周間で社会は危機的な状況に陥ってしまいますから、人びとの食生活の一端をお預かりしている意味でも責任は重大なのです。
「大成期不断努力」ーーー背伸びをせず、堅実にやっていく
父の心情は「大成期不断努力」という言葉に表れています。事業を成功に導くためには、背伸びをせず、堅実にきっちりやっていく。そういう努力の積み重ねが大事だということですね。祖父がはじめた伊香保の旅館さんとのビジネスも、要するに信用取引です。渋沢栄一は「信用は実に資本であって、商売繁盛の根底である」と述べていますが、馬を引く祖父の写真がわたしたちの原点であり、まさにスタートなのですね。
わたしたちの規模の会社の場合、急成長することはほとんどないと思います。祖父の代から90年近く、三代目のわたしが引き継いでから30年余り、いまも今成運送が元気でいられるのは、コツコツと、少しづつ右肩上がりにやってきた結果だと思うのです。今後は、ビジネスの基盤をさらに強固にして、社員が「ここにいれば間違いない」と思えるような、将来を見通して安心して働ける会社にしたいと思っています。
まじめに働く人間であれば能力の差は関係ない
社員採用の面接はわたしがぜんぶやっています。人それぞれに能力は違いますから、能力は違っていても構わない。大事なのは、まじめに仕事に取り組むということだけです。仕事をしていると失敗もあります。1回目は注意して許しますが、2回目は許しません。会社を守らなくてはいけませんし、ほかの社員の生活も守らなくてはいけません。たったひとりの不届きな行動が原因でみんなを路頭に迷わせるわけにはいかないのです。
渋川人であるという誇り
渋川は群馬県のほぼ中央に位置しており、旧領地の端ということから「関東平野の外れ」という人が多いのですが、わたしは「雄大な関東平野は渋川から始まっている」といっています。日本の運送会社のうち、保有するトラックが50台を超える会社は6%しかありません。何百人もの社員がいる会社からみれば「今成運送なんか~」といわれるかもしれませんが、この地域ではトップでありたい、「渋川だったら今成さん」といわれる会社になりたい。近隣の小中学校が参加する演奏コンクールの際には、今成運送が楽器を運んでいます。地元に貢献する会社でありたいですし、名刺に「日本の真ん中、緑の渋川」というキャッチフレーズを入れているように、渋川人である誇りを大切にしたいと思っています。